謝罪は、頭を下げるための儀式ではない
あなたは、謝罪というものを深く考えたことがあるでしょうか。世間では、それはしばしば「謝った」という実績を作るための儀式になっています。金を払い、頭を下げ、書面を交わして、終わりにする。けれど本当の謝罪は、その手前にあるのかもしれません。身を削るとはどういうことか、責任を取るとはどういうことか——静かに考えてみる読み物です。
SUMMARY詫びる、という行為の中身
謝罪とは何でしょうか。多くの場面で、それは「謝罪したという事実」を残すための手続きになっています。クレームが来たから頭を下げる。トラブルになったから解決金を払う。再発防止策を書面にする。一連の手順を踏めば、こちらの責任は果たされ、荷物は軽くなる——そう考えられています。けれど、その謝罪は、相手のために行われているでしょうか。それとも、自分の荷物を下ろすために行われているでしょうか。
身勝手な言い訳を並べ、形だけ頭を下げ、金で片をつける。それは謝罪の形をしているけれど、中身は「自分を楽にするための儀式」かもしれない。本当の謝罪は、もっと厄介で、もっと重いものです。
「謝った」と「詫びた」は違う
謝罪には、二つの相反する顔があります。ひとつは、自分の側の事情を説明し、相手に納得してもらい、これ以上の追及を止めてもらうための交渉。もうひとつは、相手が負った痛みに本当に向き合い、その重さをこちらが引き受ける行為。前者は自分のための手続きで、後者は相手のための行為です。世の中の「謝罪」の多くは前者で、しかも前者であることを、当人すら気づいていません。
頭を下げるかどうかは、本来あとの話
もし本当に自分に非がないと思うなら、頭を下げてはいけない、という考え方があります。非がないのに詫びるのは、相手を欺くことだからです。むしろ、納得できないなら頭は下げず、金銭だけで処理するほうが誠実だ、と。逆に、本当に相手に痛みを与えたと心から思うなら、頭を下げる前にやるべきことがある。詫びるとは、頭を下げる角度の問題ではなく、相手の痛みをどれだけ我がこととして引き受けられるかの問題です。
COLUMN軒先に立つ人
それが起きたとき、私はまだ三十代の半ばで、投資先に出向しているファンドの人間でした。妻がいて、上に男の子、下に女の子がいて、どちらもまだ抱っこをせがむ年ごろでした。その年、私たちが選任したベテランの経営者が、社内の争いに敗れるかたちで退任し、彼と反目していた者たちが後釜に座りました。新しい体制は、かつて取締役会で採用を決議したはずの、子を持つ女性たちを、何人もまとめて内定取り消しにしたのです。
その処理を任されたのが、私でした。自分の幼い子供たちと妻のことを思うと、胸がふさぎました。願書を送って受け取り、引っ越しの準備をしていたかもしれない人。保育園の抽選に胸をなで下ろしていたかもしれない人。そのひとりひとりの顔を想像しないようにしながら、私はそもそも金を払う気も謝罪もする気もなさそうな上席を相手に精一杯交渉し、いくらかでも多くの解決金を勝ち取りました。それがせめてもの償いだと思っていました。
周囲も、新しい代表も、「金を払ったのだから、それでいい」と言いました。法的にも処理は済んだけど、解決金の額面は低かった。二十日ほど路頭に迷わずに済む程度の、目腐れ金です。だれの目にも、一件落着、と映っていました。私も、そう思い込もうとしていたのだと思います。胸の奥の、小さなとげのようなものに、見て見ぬふりをして。
ところが、それでは済まなかったのです。ある内定取り消し者の夫が、怒り狂って私に食ってかかってきました。金の問題ではないと彼は言う。私の妻の、いったい何が悪くて取り消したのか、それを説明してみろ、と。私は答えられませんでした。取締役会の決議がひっくり返った、という以上のことを、私は何ひとつ、その夫に返せなかったのです。理屈にもならない理屈で命じられた通りにごまかすことはできても、人の怒りに向き合う言葉を、私は持っていなかった。
たまりかねて、私は退任したあの老経営者に連絡をとりました。もう会社にはなんの責もない人です。それでも電話口の向こうで、彼は二つ返事をした。「私が採用を決めたのだし、責任は最後まで取るよ」と。そして、謝罪に同行する、と。普段はひょうきんで、奇矯なことばかり言ってニヤニヤしているあの人が、です。
話し合いの場所に指定されたのは、郊外の、どこにでもあるファミレスでした。約束の時刻の、ゆうに二十分も前だというのに、老経営者はその軒先に、ただ立って待っていました。コートのえりを立て、手を前で軽く組んで、駐車場の入口のほうをじっと見ている。私は面食らって言いました。もう金も払いました、頭も下げました、そこまでする必要がありますか、中で座って待てばいいではないですか、と。
老経営者は、こちらを見もせずに言いました。「謝罪はね、謝った実績を作るためにするものじゃないんだよ」。それから、いつものちゃらんぽらんな調子はどこにもなく、こう続けたのです。「悪くないと本当に思っているなら、頭なんか下げちゃいけない。それは相手を欺くことになる。金だけで片をつけるほうが、よほどましだ。だが本当に悪いと思うなら、頭を下げる前に、まず相手の痛みの側に立ってみることだ」。軒先の二十分は、効率でも面子でもなく、その人が相手にどう向き合うかそのものだったのです。
時間きっかりに現れたその夫婦に、老経営者は深々と頭を下げました。言い訳をしなかった。何があって採用を決め、何が起きてそれが覆されたのか、経緯のすべてを、退任した身のうえで、ひとつも隠さずに語りました。その夫は、始めはこぶしを握っていたけれど、いつの間にか、ひとつひとつの言葉にうなずくようになっていました。
帰りぎわ、その夫婦は、自分たちの赤子を、老経営者に抱かせていました。妻の仕事を守ることができなかった相手の腕に、です。その腕の中で、赤子は不思議そうに顔を見上げていました。私はその光景を、うまく言葉にできません。ただ、金を払って頭を下げただけの私の腕には、その夫婦は決して赤子を預けることはなかっただろうとだけは、わかります。
あなたの最後の謝罪は、誰のためのものでしたか。
相手の痛みに向き合うためだったか。それとも、自分の荷物を下ろし、早く終わらせるためだったか。金を払い、頭を下げ、それで済ませた記憶の中に、本当は済んでいなかったものは、なかったでしょうか。
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