あなた達と、わたし達の境界線
「うちの関係者」と聞いて、あなたは誰を思い浮かべるでしょうか。会社は、思っているよりずっと多くの人とつながっています。どこまでを「関係者」と捉えるか——その線の引き方そのものが、会社と経営者の大きさを、静かに決めています。
SUMMARYどこに、線を引いているか
会社は、経営者ひとりのものではありません。従業員がいて、その従業員には家族がいる。取引先があり、商品やサービスを受け取る客がいて、工場や店のまわりには地域に暮らす人々がいる。会社は、こうした多くの人々——ステークホルダー——とのつながりの中に立っています。そしてここに、見落とされやすい問いがひとつあります。その「つながりの輪」を、自分はどこまで広く捉えているかという問いです。
どこまでを「関係者」と見るか。その幅は人によって違い、可変です。そして、その幅の広さこそが、会社と経営者の規模と存在感を、思いのほか正確に映し出します。
たとえば、アルバイトを雇う経営者を考えてみます。時給と、シフトに入るその一人だけを見ている経営者にとって、関係者はそのアルバイト本人で完結しています。けれど実際には、その背後には親がいて、兄弟姉妹がいて、その人を案じる家族がいる。家族は、当人がどんな扱いを受けて働いているかを、家での様子から感じ取っています。経営者からは見えていなくても、経営者はその家族からも見られている。これが、認知の幅の外側にいる「見えないステークホルダー」です。
法的に正しいことと、幅の中で正しいこと
もうひとつ、別の場面を。海辺に工場を構え、敷地として浜を占有し、これまで地元の人が釣りをしてきた場所に立ち入りを禁じる。所有権・占有の権利として、これは法的に正当な行為です。誰にも文句を言われる筋合いはない、と言うこともできる。
狭い幅で見れば、何も間違っていない。広い幅で見れば、何かを損なっている。同じ一つの行為が、捉える輪の大きさによって、まったく違って見える。そして長い目で見たとき、会社の評判や信頼、地域での存在感を形づくるのは、たいてい後者——広い幅から見たときの姿のほうです。
これは、抽象的な倫理の話ではありません。どこまでを関係者と捉えるかは、内部統制やガバナンスと地続きです。関係者の輪を狭く引きすぎる組織は、見えていない場所で信頼を削り、それがいつか巡って自分に返ってくる。逆に、輪を広く捉えられる経営者のもとには、その幅にふさわしい人や仕事が、自然と集まっていきます。会社の「大きさ」は、売上の数字だけでなく、この認知の幅によっても測られているのかもしれません。
COLUMN線の向こう側から
朝が来る前の海は、まだ誰のものでもない時間を生きています。空が白む頃、砂利を踏む音がして、ひとりの老人が竿を持って立つ。三十年、あるいは四十年。その人は、その場所を所有したことなど一度もありません。買ってもいないし、登記もしていない。ただ、来る日も来る日もそこに立ってきた、という事実だけが、潮の匂いのように体に染みついている。法律の言葉は、その染みを「権利」とは呼びません。けれど当人にとっては、父と並んで竿を振った記憶も、いつか孫を連れて来るはずだった約束も、すべてが地続きにそこにある。
ある日、その手前に塀が立ちます。新しく操業を始めた者が、敷地として浜を取得し、関係者以外の立ち入りを禁じた。手続きは何ひとつ欠けていません。買い、囲い、標識を立てる。図面の上で、その人は誠実に、完璧に正しいことをしただけです。私は、この「正しさ」を否定したいのではありません。否定できるものでもない。ただ、その人が広げた地図には、波の高さも、四十年分の足跡も、塀の前で立ち尽くす背中も、はじめから描かれていなかった、というだけのことです。地図に載っていないものを、人は見落とすのではない。そもそも、見ていない。
ここに、奇妙な非対称があります。塀を立てた者は、塀の前の老人を見ていません。けれど老人は、塀の向こうの者を、はっきりと見ている。声を荒げるわけでも、訴えるわけでもなく、ただ黙って見ている。そして老人の背後には、彼を案じる者がいて、その者にもまた家族がいる。見られていることに気づいていない者と、見ていることを口にしない者。その二つのまなざしのあいだに引かれた線——それが、ふだんは誰の目にも映らない、認知の幅のいちばん外側の輪郭です。
私が長く事業の現場を見てきて思うのは、人がどこに線を引くかは、その人の悪意とはほとんど関係がない、ということです。塀を立てた者は、悪人ではありません。むしろ手続きを守る誠実さを持っている。問題は善悪ではなく、視野の半径なのです。半径が短ければ、輪の外で起きていることは、最初から存在しないことになる。存在しないものに、人は責任を感じようがない。だからこそ、これは厄介なのだと思います。狭さは、痛みを伴わずに人を狭くする。
同じことが、もっと身近な、ずっと小さな場所でも起きています。誰かをひとり雇うとき、人はつい、目の前の労働力と、支払う対価という二点だけで関係を閉じてしまう。けれど、その人が一日の終わりに帰っていく先には、玄関の灯りがあり、夕食を温めて待つ誰かがいる。その誰かは、当人が今日どんな顔で帰ってきたかを、靴を脱ぐ音だけで察してしまう。雇う側は、その玄関を見たことがありません。見たことがないのに、見られている。私たちが交わすあらゆる契約の裏側には、契約書には署名のない、無数の同伴者がいるのです。
そして、ここからが本当に静かな話です。輪を狭く引いた者に、罰は下りません。少なくとも、すぐには。法は彼の味方であり続けるし、決算の数字も何も語らない。けれど、狭さは、目に見えない速度で何かを目減りさせていきます。浜から人が去り、雇われた者の目から光が薄れ、いつか人が集まらなくなる。そのとき本人は、なぜだろう、と首をかしげるでしょう。原因は遠すぎて、もう見えない。広く見る者のもとに人と仕事が集まり、狭く見る者のもとから気づかれぬまま引いていく——この緩やかな潮の満ち引きに、本人が気づくのは、たいていいちばん最後です。
私は、塀を壊せと言いたいのではありません。浜を返せとも、雇うのをやめろとも言いません。所有の権利も、契約の自由も、社会を支える大切な骨格です。ただ、自分が今、どれくらいの半径で世界を見ているのか——その円の縁が、どこを通っているのか——を、ときどき自分の手で測り直してみてほしいと思うのです。線は、引いた瞬間に固まるものではありません。広げることも、結び直すこともできる。誰に命じられるのでもなく、自分の意思で。
「うちの関係者」と聞いて、誰を思い浮かべますか。
会社は、思っているより多くの人とつながっています。従業員のその先にいる家族、取引先、近くに住む人たち——どこまでを「関係者」と捉えるかで、会社の見え方は変わります。
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