その「信用できない」は、誰の信用を測っているのか
人を「信用できない」と口にするとき、私たちは自分の信用の価値を、正しく測れているでしょうか。疑い続ける人と、疑われ続ける人。信用を値踏みする側にこそ、本当はその人の信用の重さが問われています。価値のない信用は、積み重なるほど、信じてしまった相手を不幸にするのかもしれません。あるファンドの社長が、見下していた相手の正体を知る——その一部始終を通じて考える読み物です。
SUMMARY値踏みする側の、値打ち
こんな夫婦がいます。夫は妻を大切にする愛妻家。妻はそんな夫を、それでも常に浮気を疑い、行動の一つひとつに説明を求めます。「信じられない」と突きつけられ続けるうち、夫は次第に、自分のほうがおかしいのではないかと思い始めます。会社の飲み会でも、「同僚と飲んでいる証拠」をスマホで撮って妻に送る。その姿を見て、周囲は彼を、そっと敬遠していきました。疑われ続けた人は、やがて本当に、信用を失っていくのです。
やがて夫はキャリアからも外れ、見栄の足しにならなくなります。すると妻は、あっさり彼を見限りました。問いたいのは、ここです。——その妻が振りかざしていた「信用」には、そもそも、どれほどの価値があったのでしょうか。
信用には、出どころの値打ちがある
「あなたを信用できない」という言葉の重みは、それを言う人の信用の値打ちで決まります。確かな目を持つ人の「信用できない」は、聞くに値する。けれど、何も確かめず、何も調べず、ただ猜疑心だけで「信用できない」を連発する人の言葉に、どれほどの値打ちがあるでしょうか。価値のない信用は、集まれば集まるほど、それを信じてしまった人を縛り、不幸にします。夫を縛った妻自身が、世に出てみれば、パート先ですら信用されなかった——その皮肉が、すべてを語っています。
値踏みする側に、相応の値打ちがあるか
人を値踏みするには、本来、値踏みする側に、相応の価値が——潜在的なものまで含めて——必要です。つまり、道端の石ころがダイヤを鑑定することに、何の意味もないのです。それを知らずに、なんでも論評をしてしまう人が、世の中には沢山います。「大谷よりイチローや野茂の方がエライ」と居酒屋で言う分には、構わないのでしょう。けれど縄のれんの外側の世界でそれをやってしまった時、恥をかくのは、大抵値踏みした側です。偽札の価値は、常に本物の札によって担保されています。偽札の論や評価は、真札に対してなんらの意味も持たない。さて、あなたはどちら側なのでしょうか。
COLUMN針の筵(むしろ)の上で
私は、銀行から投資先に送り込まれた、いわばサラリーマンの社長でした。プロパーの経営者ではない。本部の意向を背負って椅子に座る、出向の身です。だからこそ、というべきか、私は人を見るとき、いつも出身や肩書きや、まとっている空気で値踏みする癖がありました。その癖が、これほど高くつくとは、当時の私は思いもしませんでした。
青年が、ひとりの老経営者を連れてきました。難しい局面を立て直すための、切り札だというのです。けれど私には、その老人が、どうにも信用ならなく見えました。飄々として、責任から一歩引いているように見える物腰。場をはぐらかすような奇矯な冗談。何もかもが、私の目には田舎くさく映りました。きっと金か仕事に困った者が、できる人間のふりをして取り入っているのだろう——そう決めつけて、彼が軽口を叩くたび、私は嫌悪を隠そうともせず、冷たい目で見てしまっていたのです。
反対に、青年のことは、すっかり信用していました。いつも慇懃で、私の前では折り目正しく、何を尋ねても「大丈夫です、できます」と快活に言い切る。その歯切れのよさが、私には頼もしく聞こえました。銀行という、言質と書面で動く世界から来た私には、言い切る人間こそが信用に値したのです。むしろ私の悩みの種は、生真面目なはずの出向部下が、いつの間にか、あの老経営者に感化されていくことのほうでした。何かよくないものに、染められていくように見えて。
いま思えば、それは銀行と事業会社という、まるで言葉の通じない二つの世界の、ただのすれ違いでした。私は事業の現場の言葉を解さず、相手の物腰の意味を読み違えた。その読み違えから生まれた猜疑心と不快感のままに、私は青年と手を組んで、老経営者のはしごを外したのです。確かめもせず、調べもせず、ただ「気に入らない」という、それだけの理由で。
ひとつ、忘れられないことがあります。例の、内定を取り消された女性たちのことです。あとで知ったのですが、あの老経営者は、彼女たちを一人残らず、別の会社へ再就職させていました。しかもその斡旋先は、どれもその青年の会社より、売上も、利益も、社員の数も、桁が一つ二つ多い大企業ばかりだったのです。普通なら、礼を言うべき話でしょう。ところが報告を受けた私と青年は、礼の一つも口にしなかった。「どうせ、怪しい会社にでも紹介して、恩を売ったつもりでいるんだろう」。そう言って、私たちは調べることすらしなかったのです。
からくりが見えてきたのは、ずっとあとでした。あの老経営者の周りにいた人々は、上場企業の取締役であり、名の通った法律事務所であり、大手の監査法人でした。私が田舎者と見下し、信用に値しないと切り捨てた相手の周囲こそ、私の出身行が、是が非でも取引したいと願う、本物の信用の持ち主が集団を形成していたのです。私は、信用を測っているつもりで、自分の目の節穴ぶりを、まわりに見せて回っていただけでした。
老経営者が退いて、半年。彼が「自分なら伸ばせる」と請け合った、老経営者が残していった新事業は、ひとつ残らず崩れました。社員はボイコットを始め、実家から放り出されつつあった青年は、逃げるように投資先を去っていきました。あれほど信用した言い切りの正体が、ただの空手形だったと知れたとき、私の発行する信用状の値打ちが、問われていたのだと、ようやくわかったのです。
いま私は、出身行の本部へ帰る辞令が届く日を、指折り数えて待っています。この投資先で、ほかの取締役たちから向けられる視線が、座っているだけで、針の筵のように感じられるからです。信用できないと値踏みしていたのは、私のほうでした。そして、その値踏みの確かさで測られていたのも、私のほうだった。誰を信用するかというその目の確かさが、こんなにもまっすぐ、自分の値打ちとして返ってくるとは——針の上に座って、私は毎日、それを思い知らされています。
あなたが最後に「信用できない」と思ったとき、相手をどれだけ確かめましたか。
確かめ、調べたうえでの判断なら、その目は信じるに足ります。けれど、思い込みだけで下した値踏みは、相手ではなく、自分の見立ての浅さを世間にさらします。人を測るその物差しは、いつも、測っている自分のほうへ、そっと向き直っているのかもしれません。
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