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正しさを信じ切る人たち

会社が壊れていくとき、そこに悪人がいるとはかぎりません。むしろ多くの場合、関わった全員が、自分なりの正しさにのっとって動いています。誰も間違ったことをしていないのに、気がつくと会社のほうがなくなっている。問われているのは、正しさの中身ではありません。その正しさが、どれくらいの広さの世界の上に立っていたのか——そこを考えてみる読み物です。

A COMPANY READING ・ その正しさは、どこまで見て言っているか

SUMMARY

会社が傾いていく現場を見ていると、意外なことに気づきます。悪意のある人が、あまりいないのです。書類の不備を指摘する人も、慣れたやり方を守る人も、休日を返上して働く人も、みな自分の職務に忠実で、自分は正しいことをしていると思っています。そして実際、その言い分は、たいてい筋が通っている。にもかかわらず、その正しさが一つずつ積み重なった先に、会社がなくなる。不思議なようですが、珍しいことではありません。

正しさというのは、判断そのものの中にあるのではなく、その判断が乗っている土台の広さで決まるのかもしれません。今週の面倒を減らす判断は、今週の中では、たしかに正しいのです。

正しさは、見えている範囲の中でしか立たない

人は、自分に見えている世界の中で、いちばん妥当な選択をします。今日の手間が減るなら、それは正しい。責任を負わずに済むなら、それも正しい。慣れたやり方を変えないほうが確実なら、やはり正しい。ここまでは、誰も間違っていません。問題が起きるのは、その人の見ている範囲より外側に、判断の結果が及ぶときです。三年先、十年先に効いてくる話は、今週の視野には入っていません。入っていないものは、判断材料になりようがない。こうして、その場では最適な判断が、少し先の時間から見ると自分の首を絞める判断になります。

守りたいものと、見ている範囲は釣り合っているか

ここで一度、立ち止まってみる価値があります。あなたが本当に守りたいものは、どれくらい先にあるでしょうか。定年まで働き続けられること。子が独り立ちするまでの収入。老後の暮らし。多くの人にとって、守りたいものは、たいてい何年も先にあります。けれど、日々の判断で実際に見ている範囲は、今週か、せいぜい今期どまりではないでしょうか。守りたいものが十年先にあるのに、見ている範囲が一週間しかない——そのずれがあるとき、人は、自分の大切なものを守るつもりで、それを壊す側に回ります。悪意はいりません。真面目であればあるほど、熱心にそうします。

凡庸さとは、能力が足りないことではありません。守ろうとしているものの大きさに対して、見ている世界が狭いことです。そしてこの狭さは、内側からは決して見えない。自分の視野の外側は、自分にとって存在しないのと同じだからです。
この記事は、目先を大事にする人を責めるものではありません。今日をきちんと回すことは、それ自体が仕事の中身であり、誰かがやらなければ会社は一日も持ちません。ここで問うているのは、その目盛りだけで、何年も先にあるものまで守れると考えていないか——という一点です。

COLUMN

先生が、そうおっしゃったので

私がその会社で最初に覚えた顔のひとつが、経理の彼女でした。五十代の半ば、勤続三十年。銀行にいたころの私なら、その二つの数字だけで、堅い会社だと書いていたと思います。

社長は、就任して二年目でした。私たちが選んで送り込んだ人です。人が減っていくこの土地では、まっとうな施策をいくら積み上げても届かない——そう結論して、いちばん尖った策を出してきた人でした。その業界を知らないという一点を除けば、経営の歴も、財務の腕も、私が銀行で見てきた誰よりも確かでした。

就任の少し前に、彼は給与台帳を出させました。まだ誰の顔も知らないころです。給料と、勤続年数。並んでいるのはその二列だけでした。彼はそれを、ずいぶん長いこと眺めていました。

やがて何人かに印をつけて、彼は言いました。この人たちは仕事を抱え込んで、いずれ会社の癌になります。ただ、初手で束になって辞められると厄介だから、まずいくらか昇給させて落ち着かせましょう、と。

そのうえで彼が決めたのは、馬鹿なことさえしなければ、この人たちの雇用は定年まで守る、ということでした。近く定年を迎える者が何人もいましたから、その手前で若手を採る。しばらくは同じ仕事に二人分の給料が乗ります。彼はその損失を数字にして、私たちのファンドに上げ、承認を取りました。ああいう人は、一生を福祉として面倒を見るか、即座に切るか、どちらかしかない、中間はありません、あなたたちの考え方でいくなら面倒を見るほうでしょう——そう言って、彼はいちばん金のかかる道を選んだのです。

このとき私は、その見立てを、経験則の乱暴な一般化だと思って聞いていました。顔も見ていない人間を、二列の数字で決めつけていいものかと。

彼女には、印がついていました。

その社長が、見積書の額に驚いて、ある業務をクラウドソーシングに出したことがありました。費用は三分の一以下になりました。ところがその仕組みでは、領収書は出ますが、請求書という紙は出てこない。彼女は支払いを止めました。顧問税理士の事務所の担当者が、請求書がなければ経費にできませんと言ったからです。

私は仕組みを説明しました。彼女は聞いていました。うなずいてもいました。それでも支払いは止まったままでした。彼女が聞いていたのは私の説明で、従っていたのは先生の指導です。その二つは、彼女の中では別々の棚に入っていたのだと思います。

客の求めがあって、社長がQRコードの決済を入れようとしたときも、同じことが起きました。手数料が高いか安いか分かりませんので一存では決められません、と彼女は言いました。社長は他社との比較表を持っていきました。彼女はその紙を見ませんでした。見ない、と決めていました。見れば、判断したことになる。判断すれば、責任が生じる。三十年かけて彼女が磨いたのは、経理の技術というより、責任の生じない位置に居つづける技術のほうでした。

外国からの客を受け入れることになったときは、彼女は張り切りました。あの人たちは洋式のトイレを知っているのだろうかと心配し、使い方を翻訳して貼り出しましょうと、会議で自分から主張しました。トイレのことは私が責任を持ちます、と言い切って。誰にも頼まれていない領分には、彼女は自分から責任を取りにいく。責任が嫌なのではないのです。負っても何も起きない責任なら、進んで負う。

その提案は、社長が却下しました。彼女はそれを、ずいぶん長いあいだ恨みに思っていました。

システムを入れ替えるとき、帳簿に載っている六十万円ほどのサーバーの箱を出すよう言われて、それは見つかりませんでした。ITのことは分かりませんので、私の責任ではありません、と彼女は答えました。

社長は引き下がりませんでした。ITが分からなくてもかまわない、会社の財物を管理して守るのはあなたの仕事だ、と。見つかるまで探すか、それが無理なら総勘定元帳から買った業者を割り出して、せめて製造番号だけでも聞き出して報告しなさい、と。ITの知識がなくても、元帳をたどることなら、彼女が三十年やってきた仕事そのものでした。

彼女は、それをパワハラだと言いました。

私が理解に手間取ったのは、ここから先です。あの税理士事務所の所長は、この会社の顧問であると同時に、若い役員の実家の顧問でもありました。二つの椅子に座ったまま、片方の家の意を汲んで、もう片方の代表の指示に反する助言を出し、担当者にもそう指導していたのです。彼女が信じていたのは税務の正しさでした。届いていたのは、別の家の都合でした。彼女は一度も嘘をついていません。だからこそ、伝わり方が、いちばんきれいだったのです。

そしてあの若い役員は、彼女に、雇用の安定を約束していました。

そして繁忙期に、それは起きました。幼稚園の子供でも指一本で動かすタブレットでの作業を、嫌だと言って譲らない者が出て、やがて何人かが束になり、辞めると言い出しました。定年の手前で若手を採ったことが、自分たちを追い出す支度に見えたのでしょう。二人分の給料を承知で彼らの席を守っていた、その金が、そう見えていたわけです。

その中に、彼女もいました。

前の年の暮れ、あの人は忘年会の会場の駐車場に、開場の三十分も前から立っていました。社員が中に入って二人きりになった瞬間に、顔から人のよさが消えて、年が明けたらあの二人には辞めてもらう、と言いました。私はぎょっとして、なぜこんな日にと聞きました。彼は駐車場のほうへあごをしゃくっただけでした。

給与台帳の二列と、寒空の下の一時間。器具は違うのに、答えはどちらも当たっていました。

この人たちは解雇するほかにありません、と彼が書いて寄こしたとき、それは決断ではなく、通知でした。半年前の、あの寒い駐車場で、もう決まっていたことなのです。雇用を守るという約束には、はじめから一つだけ条件がついていました。馬鹿なことさえしなければ、という条件が。

その会社を訪れる外の経営者の、半分ほどが、真顔で社長に尋ねていました。あの方は、いつ辞めさせるのですか、と。彼女は、その問いを知りません。

やがて会社は傾き、若い役員は去りました。約束した人がいなくなれば、約束は宙に浮きます。

彼女たちが徹底して足を引っぱったのは、この会社で、彼女たちの暮らしにいちばん気を配った一人でした。定年までの席を約束し、その先を埋める若手を採り、二重に乗る人件費を自分の言葉で私たちに説明して、通した人です。

そして彼女たちが最後まですがっていたのは、持ち株をすっかり売り払って、もう会社に顔も出さない家のほうでした。売った人をいつまでもオーナーと呼び、その家から来た若い役員の約束だけを、証文のように信じて。

そのつけは、たぶん、彼女たち自身が払うことになるのでしょう。

彼女は今も、あの席に座っています。

現場に、出ておりましたので

配送を受け持つ課の課長は、四十代の後半で、よく働く人でした。朝はいちばん早く、作業着はいつも汚れていて、車のことなら誰よりも詳しい。私が最初に会ったとき、この会社にもこういう人がいるのかと、正直なところ、ほっとしたのを覚えています。

社長が就任してすぐに始めたことのひとつが、部署をまたいで情報を回す会議でした。誰がどこで何を決めたのかを、月に一度、全員が同じ卓で共有する。それだけのことです。それだけのことが、それまで一度も行われていなかった会社でした。

彼は、その会議を三回に一回ほど欠席しました。現場に出ておりましたので、というのが理由です。誰も咎めませんでした。現場に出ていた人を咎める理屈を、この会社は持っていなかったからです。

出たり出なかったりを続けるうちに、彼の中の情報は虫食いになっていきました。二回前に何を決めたのかは、たいてい消えている。あるとき、四か月前の卓で決まったことを彼が覚えていないと分かって、それを指摘されたときのことです。彼は激昂しました。本当に大事なことなら、こっちが分かるまで何度でも説明するのが筋だろう、人の気持ちを何だと思っているんだ、と。

その声を、私はよく覚えています。怒鳴っている本人が、心の底から自分は正しいと思っていることが、声の張り方で分かるのです。

彼の口ぐせは、俺は本番に強い、でした。普段どう見えていようと、いざというときに動くのが自分だ、と。

その晩、事故がありました。

夜の九時を回ったころ、辺鄙な国道で、うちのトラックが動かなくなりました。たまたま残業していた部長が、自分で代わりの車を出して現場へ走り、荷物を一つずつ積み替えました。ここまでは、まあ、どこの会社にもある夜です。

問題はそのあとでした。部長は、事務所の壁に貼ってある緊急連絡先の紙を、上から順にかけていきました。

修理とレッカーの業者は、四年前に廃業していました。保険の代理店は、会社が保険を切り替えたときに関係が切れていて、いま自分たちがどこの保険に入っているのかを、誰も知りませんでした。JAFにかけると、おたくは会員ではありませんと、短く断られました。証券は事務所の金庫にあるはずで、事故のときにかける専用の番号は、その紙に刷ってあるはずでしたが、その紙が見つからないのですから、番号も分かりません。

部長は、夜中じゅう帰れませんでした。冷えていく国道の脇で、当てのない番号を順にかけ続けたそうです。

その紙を管理する立場にあったのが、車両と事故対応の責任者、つまり彼でした。

翌朝、部長が出社したとき、彼は会社の玄関先で草を刈っていました。よく晴れた朝で、機嫌がよさそうだったと聞いています。部長は、その背中に向かって、大股で歩いていきました。

彼は、嘘をついていたわけではありません。本番に強いというあの自負は、本物だったと思います。彼の言う本番とは、汗をかいて体を動かす場面のことでした。四年前に廃業した業者の番号を消して、新しい番号を書き入れる——そういう時間は、彼の中では本番ではなかった。むしろ、会議と同じ側の、机の上の話だったのでしょう。

銀行にいたころ、私は毎日のように決算書を読んでいました。車両費も、保険料も、修繕費も、みな数字になってそこに並んでいます。けれど、その保険がいまどこの会社のものなのか、事故の夜に誰の電話が鳴るのかは、決算書のどこにも書いてありません。私が十年のあいだ読んでいたのは、そういう紙でした。

その朝、玄関先で草を刈っていた彼を、私は責める気になれませんでした。四年です。四年ものあいだ、あの紙が死んでいることに、この会社の誰ひとり気づかなかった。彼は、その誰かのうちの一人だったにすぎません。

新しい社長が月に一度の卓を作ったのは、たぶん、そういう四年をこれ以上作らないためでした。彼はその卓を、三回に一回、現場を理由に空けていたのです。

日曜日の、手書きの束

総務を長く見てきたその管理職は、六十を少し手前にした人でした。この会社を守り抜くのだと、口に出して言うのをためらわない人です。それを証明するように、彼は日曜日に出社していました。

タイムカードは切りません。手当が欲しくてやっているのではない、会社のためだ、というのが彼の言い分でした。誰にも命じられず、誰にも払われず、日曜の事務所にひとりで座って、書類を整理する。その姿を、私は最初、頭が下がる思いで見ていました。

彼が整理していたのは、手で書いた書類の束でした。

表計算の画面に打ち込めば済むものばかりです。というより、打ち込んであれば、日曜に出てくる必要そのものがない。彼はパソコンを使いたくないという一点で、それを手で書き写し続けていました。手で書いたものがいちばん確かなんだ、長年それでやってきて何の問題もなかった、と。

問題は、確かに、起きていませんでした。彼が日曜に出てきているあいだは。

社長がその部署に若い責任者を立てようとしたとき、四十代の社員がひとり、それを断りました。理由を聞くと、あの束を引き継ぐことになるからだ、と言ったそうです。あれを引き継げば、自分も日曜に出てくることになる。タイムカードを切らずに、手当のつかない一日を、これから二十年。

彼が断ったのは役職ではなく、その生き方でした。

この会社には、そういう断り方をした人が何人かいます。断られた側は、たいてい、近ごろの若い者は責任を取りたがらない、と言います。彼もそう言っていました。私はその言葉を、しばらくのあいだ、そういうものかと思って聞いていました。

けれど、あの手書きの束は、彼が定年でいなくなった日から、誰にも読めなくなります。どこに何が挟まっているのか、なぜこの順で綴じてあるのか、それを知っているのは彼ひとりです。日曜日の彼は、会社を守っていたのではありませんでした。自分がいなければ回らない状態を、毎週日曜日に、一日ずつ作っていたのです。

彼自身は、そのことに気づいていません。気づいていないから、あの誇りは本物でした。誰にも払われない一日を、二十年も差し出してきた人の誇りです。それを笑う気には、私はどうしてもなれない。

彼が守ったものと、会社が必要としていたものは、別のものでした。

社長は一度だけ、その束を全部あちらの画面に移してしまいましょう、と持ちかけたことがあります。三日もあれば終わる、そのぶんあなたは日曜に休めるようになる、と。彼は、首を振りました。あれは自分の仕事です、と言って。

そのとき彼の顔にあったものを、私はうまく言えません。誇りだったのだと思います。誇りというのは、ときどき、こういう形をしているのだと知りました。

彼の定年まで、あと二年ありました。

老酒のグラスと、四割の線

正直に書いておきますと、私はこの会社を買うことに、最後まで反対していました。

財務は、悪くなかったのです。数字だけ見れば、むしろきれいなほうでした。それでも私は反対しました。この業態が、人が減ればそのまま縮む種類のものだったからです。

地元の人口を年齢別に並べて、この会社が誰に売っているのかを重ねてみました。買っている層が、これから何人減るのか。三年後あたりから落ち始め、そこから三年ごとに一割ずつ、複利で削られていく形が出てきました。

ただ、頭数だけでは足りませんでした。同じ数だけ人がいても、その人たちが以前ほど使わなくなっている。買う側に回る割合そのものが、年々薄くなっていました。減っていく頭数に、薄まっていく参加率が掛かる。二つを重ねると、十年で、いまの売上の四割ほどが消える計算になりました。

景気の話ではありません。すでに生まれている人の数と、その人たちの暮らし方だけで、そこまでは決まっているのです。

今日の決算書には、その線は一行も書かれていません。

そして、そういう会社を、通常のやり方で他社に売れる形に整えることは、事実上できません。買い手も同じ線を引けるからです。入るときの絵は描けても、出るときの絵が描けないというのは、そういう意味でした。

その意見は、通りませんでした。通らなかったというより、いわゆる鶴の一声という案件です。逆らえない声が、ぜひやれ、と押し込んだのです。

どこから出た声かは、書かないでおきます。本店の、いちばん上のあたり、とだけ。

なぜそこまで熱心なのかは、当時から分かっていました。あの若い役員が、その界隈の人と、銀座で飲み歩く仲だったからです。そしてその勘定が、彼の稼ぎから出ていないことも、私は知っていました。年に何百万か払っていた、ある女性への手当てと、同じ財布——実家からです。実家は自分のおかげで回っている、というのが彼の口ぐせでした。

あの家の金が、本店のいちばん触れてはいけない場所とつながっている。それは私にとって、驚くべきことではなく、動かしようのない前提でした。

だから私は、買うことについては引き下がりました。引き下がるかわりに、一つだけ、絶対に譲らないと決めたことがあります。誰を経営者として据えるか、その一点です。

候補者には、何人も会いました。ほとんどの人が、できます、と言いました。任せてください、伸ばしてみせます、と。銀行から来た人間にとって、言い切る人は信用しやすいのです。書面と言質で動く世界にいると、そういう耳になります。

ただ一人だけ、違うことを言った人がいました。

その人と会ったのは、面接というような場ではありませんでした。行きつけだという中華料理店の個室で、昼から老酒を飲みながらの会食です。私は候補者の資料を鞄に入れていましたが、結局、一度も開きませんでした。

料理が二皿目に入るころ、彼はその会社の話を始めました。この業態は、人が減ればそのまま縮む。三年後あたりから落ち始めて、そこから三年ごとに一割ずつ。頭数だけでなく、買う側に回る割合そのものも薄くなっているから、十年で四割が消える。財務がきれいなのは今の話で、何の保証にもならない。そして、通常のやり方で他社に売れる会社に仕立て直すことは、事実上できない——と。

何も見ていませんでした。老酒のグラスを持ったままです。

私はいぶかしみながら聞いていました。昼から酒を飲んでいる人が、資料も見ずに数字を言い切る。そういうものは、たいてい当たっていないのです。

会社に戻って、私は計算し直しました。全部、合っていました。

私の見立ては三割でした。彼は四割だと言った。違いは参加率です。私は頭数しか見ていなかった。過去の推移を並べてみると、たしかに薄くなっていました。

後日、認識を合わせるためのメールを送りました。数字を並べて、こういう理解でよろしいでしょうか、と。返信を読みながら、私は自分の指先が少し冷たくなっているのに気づきました。二か月かけて私が作った紙が、あの個室の一時間で、しかも一段深いところまで、先に出ていたのです。

ところが、その人には、やる気がありませんでした。

正確に言えば、頑張ることに乗り気ではなかった。何度も私を諭しました。中小企業というのは、力を入れて働きかけても、まともな見返りが返ってこないことのほうが多い。だから適当にお茶を濁して、経費だけ削って、数字だけ整えて、頃合いを見て売り抜けるのがいちばん楽だ、と。あなたの立場なら、それで十分に務まりますよ、とも言われました。

私は、そのたびに断りました。会社を元気にしたい、と言いました。価値を上げて、そのぶんで雇用を守って、買う側にも利益が出るようにしたい。三方とも損をしない終わり方が、あるはずだ、と。

いま書き写すと、ずいぶん青いことを言っています。実際、青かったのだと思います。彼は最初、苦笑いをして聞いていました。

何度目かのとき、その目つきが変わりました。

分かりました、と彼は言いました。結果がどうなるかは度外視して、あなたのその生真面目さに付き合いましょう、と。

そこから先の彼は、別人でした。手を緩めるということをしない。次から次へと打つ。火のように攻め立てる経営、というのがいちばん近い言い方だと思います。私は毎日、追いかけるだけで精一杯でした。

あの方針転換が何だったのかを、私はずいぶん長いあいだ分かっていませんでした。説得されたのです。彼が、私に。

カレンダーの、重なり方

その話を聞いたのは、社長室でした。夕方で、あの人は書類から目を上げずに言いました。切られるのは私だよ、と。だから今のうちから支度をしておくべきだ、と。

私は反論しました。筋が通らない、こちらには理がある、本店にも上げてある、と。実際、私はその半年ほど、若い役員を役から外すべきだという意見を、何度も上へ書いていました。理屈は揃っていたと思います。

そうだね、とあの人は言いました。それだけでした。

私は、うつむいたまま何も言えませんでした。この人の読みが外れたのを、私は一度も見たことがなかったからです。

それから、私に少し悪い癖がつきました。

社内の画面では、ファンドの社長のカレンダーが見えます。予定の名前と、時刻と、場所だけです。中身は分かりません。そして私は、この会社の役員を兼務している関係で、同じくこの会社に籍を置く、あの若い役員のカレンダーも見られる立場にいました。

私は、その二つを並べて眺めるようになりました。

火曜の夜、七時から、同じ町名。翌々週の木曜も、同じ時刻に、また同じ町名。片方には会食とだけあり、もう片方は空白になっている夜もありました。予定を入れていないのではなく、書けない予定が入っている日というのが、カレンダーには確かにあります。

投資先の役員のひとりと、ファンドの社長が、私の頭越しに、夜、二人で何度も会う。用があるなら昼に、記録の残る場所で、私を同席させて行うはずのことです。

つまり、あの線がまた動いている、ということでした。二年前に私の反対を押し切ったのと、同じ線がです。

私たちのファンドの社長は、銀行で私の上司だった人です。まじめで、勤勉で、そして——こう書くのは気が引けますが——順当にいって平取締役に手が届くかどうか、というあたりが天井の人でした。あの高さから降りてくる話に、逆らう理由がどこにもない人です。逆らって得るものが、何もないのですから。

そのころから、若い役員についての社長の言い方が、少しずつ変わっていきました。以前は苦い顔で聞いていた話に、うなずくようになる。私が上げた意見書への返事が、だんだん短くなる。

ここから先は、私の想像です。証拠は何ひとつありません。

社員には実家でも雇うと言っておけばいい、昇給の話もちらつかせて、あの人以外の役員の言うことは聞くなと回らせればいい。社員に不満を言わせて、その不満を材料に、皆の前であの人を問い詰める。恥をかかせて、追い詰める。そういう筋書きは、たぶんどちらか一方の思いつきではなく、卓の上で二人ぶんの言葉が乗り合って、だんだん形になっていったのだろうと思います。

そこにもう一つ、便所の掃除でも押しつけてやりましょうか、という話が出たかどうか。これは本当に私の悪い想像です。あとになってその話がどこからか耳に入ってきたとき、私は少しも驚きませんでした。

傑作だ、と二人は笑ったそうです。

その笑い声を、私は聞いていません。聞いていないのに、いまでもはっきり思い浮かべることができます。

——ここまでが、火曜と木曜の町名から、私が勝手に組み立てたものです。全部が私の頭の中の話で、実際には何も話されていなかったのかもしれません。

その後に起きたことは、想像ではありません。あの人は退きました。私が半年かけて書いた意見書は、一行も通りませんでした。若い役員の椅子は、そのまま残りました。

出口の描けない会社を買ったのは、本店とファンドです。その出口を作れるかもしれない唯一の一点として、私が押し通したのが、あの人選でした。買うことを決めた側が、その一点だけは守るのだろうと、私は思っていたのです。守らなければ、自分たちが買ったものが、ただの出口のない会社に戻ってしまうのですから。

守られませんでした。

残った新事業はひとつ残らず崩れ、社員は動かなくなり、若い役員は実家からも押し出されるようにして去っていきました。会社には、出口も、それを作れる人も、もう残っていません。私たちが二年かけてやったのは、まだ手のあった会社から、最後の手を一つ取り除くことでした。

しっぽを切る必要が出たとき、いちばん切りやすい場所にいたのは、ファンドの社長です。守るために従った人が、従ったという事実だけを手元に残して、そこに座っていました。

その後、あの人は自分の失敗について、ずいぶん率直に語ったと聞きます。人を見る目がなかった、確かめもせずに値踏みをした、と。そのとおりだと思います。ただ、銀座の話は、一度も出てきませんでした。言えなかったのだろうと思います。あれを口にすることは、自分がキャリアのために従ったと認めることになりますから。人を見誤ったという話のほうが、まだしも、ましなのです。

会社が終わったのは、誰かがしくじったからではありません。買った時点で、寿命のほうが先に決まっていたのです。三年後から落ち始め、十年で四割が消える。その時間軸の上に、私たちは両足を置いて立っていました。時計を巻き戻す道具がない以上、残された道は、普通でない手を打って、別の会社に作り変えることだけだったのです。

その説明を聞いていなかった人は、ひとりもいませんでした。

あの人は、全体の集まりで何度も同じ線を引いて見せました。三年後から落ち始めること。十年で四割が消えること。だから普通のやり方では間に合わないこと。紙も配られ、分かりましたか、と聞かれて、みな、うなずいていたのです。

うなずいたうえで、彼らはタブレットを嫌がり、日曜に手で書き写し、比較表を見ないことにしました。

そのどれもが、明日も今日と同じであってほしい、という一つの願いから出ていたのだと思います。

そして、この土地には、次の勤め先がありません。五十を過ぎ、六十に手が届こうという人が、いまの給料でもう一度雇われる場所は、車で一時間走ってもないのです。彼らが守ろうとした明日は、あの会社が続いていなければ、一日も来ないものでした。

ぶら下がっていた枝を、自分たちで折ったことになります。折っているとは、最後まで思っていなかったと思います。

凡庸な毎日を守ろうとして、ほとんど全員が、いちばん悪い結果を引き当てました。その毎日を守るために普通でない手を打とうとした人だけが、真っ先に、そこから追い出されたのです。

私は当時、若手の有望株ということになっていました。だから意見書を書けたのだし、書いても何も起きませんでした。通らないと知りながら書く紙には、自分は言うべきことを言ったという、都合のいい効き目があるのです。

社長室で顔を上げられなかったあの夕方、私はまだ、理屈は揃っていると思っていました。理屈が揃っていれば通ると思っていたのは、たぶん、私だけでした。

あの人を連れてきたのは、私です。そして、あの人にその気を起こさせたのも、私でした。

火をつけたのは自分だと、しばらくのあいだ思っていました。放っておけば、彼は経費を削って、数字だけ整えて、頃合いを見て売り抜けていた。誰も追い出されず、会社は十年かけて静かにしぼんでいったはずだ、と。

いまは、そうも思いません。

あの若い役員のその後の振る舞いを見るかぎり、そうやって売り抜ける道を選んでいたとしても、たぶん、その道も途中で壊れていました。壊す人が中にいる場所では、どの道を通っても壊れるのです。

掛け違いは、もっと手前で起きていました。逆らえない声が、ぜひやれ、と押し込んだ、あの日です。銀座の勘定から生まれた案件に、まっとうな出口を用意しろというほうが、そもそも無理な相談でした。私が反対意見書に書いていたのは、まさにそのことだったのに、いつのまにか私は、それを自分の火の不始末の話にすり替えていたのです。

私にできたことは、結局、一つだけでした。誰を据えるか、その一点です。私はそれを通しました。通ったものが守られるかどうかまでは、私の手の中にありませんでした。

火をつけたのは私だと思えていたあいだは、まだ楽だったのだと思います。自分の失敗としてなら、畳めますから。

あなたが「それは私の仕事ではありません」と言ったとき、その線は、どこを見て引いたものでしたか。

正しさを疑えと言いたいのではありません。正しさは、たいてい正しいのです。ただ、それがどこまでの範囲を見たうえでの正しさなのかは、口にする前に一度だけ確かめられます。今週のことか、今期のことか、それとも十年先までを見たうえでのことか。同じ言葉でも、立っている土台の広さで、意味がまるで変わります。そして自分の土台の広さだけは、自分では測れないのかもしれません。

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