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働く場所のない街

地方に人が戻らない、根づかない。それを「仕事がないから」と片づけるのは、たやすいことです。けれど、もっと言葉にしにくい理由があります。一流の大学も、芸術や音楽を究める場も、それを解する友も恋人も、都会に集まり、地方にはない。これは差別ではなく、事実としての格差です。そして目を背けるほど、その段差は広がっていきます。都会から地方へ嫁いできた、一人の女性の目を通して、その段差を見つめてみます。

A COMPANY READING ・ 差別ではない、格差がある

SUMMARY

地方に人が戻らなくなった理由は、何なのでしょうか。仕事がないから、と言われます。けれど、都会で身につけた教養や、磨いてきた感性に見合う居場所が、地方には用意されていない——理由は、むしろそちらにあるのかもしれません。人はパンのみにて生きるにあらず、と言います。文化の水準が高い人にふさわしい友人関係や、恋愛の相手を、地方都市の中だけで見つけることは、いま、難しい時代になりました。

都会で弁護士をめざす女性と交際する。都会では、ありふれた話です。それは、地方で同じように成り立つでしょうか。音楽大学を出た女性の、その演奏の本質を解する相手は、地方で簡単に見つかるでしょうか。

段差は、目を背けるほど広がる

これは、地方の人を見下す話ではありません。動かしがたい事実の話です。偏差値で最上位にある大学は、都会に集中しています。岐阜県や高知県に、音楽大学や芸術大学はありません。東京大学は、島根県にも秋田県にも、ないのです。教育の機会も、それを共有できる関係も、地理として偏って存在している。これは差別ではありません。差別は不当な扱いのことであり、ここにあるのは、事実としての格差——段差です。そして、段差から目を背ければ背けるほど、それは広がる一方になります。

文化の運び手が、参加をやめていく

都会で、地方には存在しない仕事をしてきた人がいます。法律事務所で働いた人、金融機関で総合職だった人、出版社にいた人、商社で海外を相手にしてきた人。こうした人たちは、地方へ移っても、再就職をしないことが多い。自分のキャリアより下の仕事を、人は選びません。地元のスーパーのレジや、名も知らぬ工場の事務を履歴書に書くことが、もしいつか都会へ戻るときの、自分の経歴の傷になるのなら——そう考えれば、避けるのは自然なことです。こうして、本来なら地方に新しい文化を運び込めたはずの人たちが、角が立たないように、社会への参加をそっと控えていきます。

地方に足りないのは、職の数ではないのかもしれません。外から来た人が、その教養と力にふさわしく働き、ふさわしく交われる場所——それが無いことのほうが、人を遠ざけている。そして、その段差を最も無遠慮な形で本人に突きつけてしまうのが、迎える側の、わきまえのない振る舞いだったりします。
この記事は、地方やそこに暮らす人を見下すものではありません。教養や学歴が人の値打ちそのものだ、と言うものでもありません。ここで見つめるのは、教育や文化の機会が地理的に偏在しているという事実と、その段差から目を背けることが、かえって地方から人を遠ざけてしまう——という構図です。事実を事実として見ることは、見下すこととは違います。

COLUMN

湾岸の国々を相手に、燃料の取引を橋渡ししていた頃のことを、ときどき思い出す。アラビア語で交渉をまとめ、英語で契約を詰め、フランス語で雑談をして場をほどく。旧帝大を出て、欧州に学び、経営学の学位も取った。商社の総合職として、わたしは確かに、世界のどこかと世界のどこかを、自分の言葉でつないでいた。その仕事を畳んで、わたしは、人口三万ほどのこの街の、古い寺に嫁いできた。

夫は、もとは映画の脚本を書いていた人で、実家の寺を継ぐために筆を置いた。穏やかで、聡明で、わたしが惹かれた理由は、いまも一つもいろあせていない。彼を選んだことを、後悔したことはない。けれど、彼を選ぶことと、この街で暮らすことは、わたしの中では、どうしても同じ重さにならなかった。人を愛することと、その人の土地に根づけることは、別の話なのだと、来てみて、はじめて知った。

檀家の方に、田植えの手伝いを頼まれた。断る理由もないので、泥に入った。次に、近所の農協の直売所で、レジ打ちをしてくれないか、と言われた。悪気は、まるでない。むしろ、暇そうにしている嫁を気づかっての、親切なのだ。それは、よくわかっている。わかっていてなお、わたしは、その親切に、うまく頷けない自分を持て余した。レジを打つことを蔑んでいるのではない。ただ、わたしがこれまで積んできたものと、差し出される居場所との間に、声に出せないほどの段差があった。

その段差が、いちばん無遠慮な形で突きつけられるのは、男たちの品評だった。田の畔や、直売所の駐車場で、こちらに聞こえる距離で、わたしの体や顔つきが、まるで品物のように値踏みされる。都会にも、そういう視線はあった。ないわけがない。けれど、都会のそれには、まだ、聞こえないふりのできる距離と、表に出さない作法があった。ここでは、その作法が、ない。本人に届くと知りながら、場をはばからずに口にされる。即物的な言葉そのものより、わたしを困らせたのは、その、わきまえのなさのほうだった。値踏みされること自体より、値踏みを隠さなくていいと思われていることが、いたたまれなかった。

暇にしているから、こうなるのだ。あるとき、わたしはそう思い切った。嘆いて縮こまっているより、自分で場所を作るほうが、性に合っている。似た境遇の数人で、子どもたちに外の世界の言葉と文化を教えるNPOを立ち上げた。仲間の一人は、銀座の法律事務所でアシスタントをしていた同い年の女性。もう一人は、地方銀行の総合職で、いまは育児休暇中の人。みな、この土地に、自分の力に見合う居場所を見つけられずにいた人たちだった。

寺の一室では、ヨガの教室も始めた。集まってくるのは、町はずれの製鉄工場へ転勤してきた夫について、都会から来た妻たち。それに、一度は都会へ出て、また戻ってきた地元の女性たち。畳の上で体をほぐしながら、彼女たちは、ここでは珍しいと言える店の情報をいつも交換している。この地方ならではの文化や人付き合いを中心にした話は全く出てこない。誰も口にはしないけれど、わたしたちは、同じ階段の近い段差に立っていて、目線を互いに確かめ合うように、笑い合っていたのだと思う。

その活動を、こころよく思わない人たちがいることも、わたしは知っている。集会所のカラオケで、酔った地元の年配の男たちが、わたしたちのことを肴にして、笑っているのだという。よそから来た嫁が、気取ったことを始めた、と。その声を、わたしは直接は聞いていない。けれど、届く。この街では、何もかもが、本人に届く距離で語られるのだ。

彼らを、悪い人だとは思わない。ただ、別の世界を生きているだけなのだ。彼らには彼らの、長い時間をかけて編まれた暮らしの作法があり、その中では、わたしのほうがよそ者で、異物なのだろう。それは、わかる。わかるけれど——わかることと、その段差が消えることとは、やはり、別のことだった。すれ違いを、美しい物語に薄めてしまいたくはない。段差は、確かに、そこにある。集会所から漏れてくる、間延びしたカラオケの旋律を遠くに聞きながら、わたしは、その段差の上に立って、それでも自分の足で場所を作るしかないのだと、もう一度、思い直すのだった。

あなたの街は、外から来た人が、その力を活かせる場所になっているでしょうか。

人を迎えるとは、住む家を用意することだけではないのかもしれません。その人がこれまで積んできたものを発揮できる仕事と、その人の言葉が通じる関係を、用意できているか。迎える側の度量が問われています。段差があること自体は、誰のせいでもありません。けれど、その段差から目を背け、わきまえなく振る舞うことを続けるなら、人は静かに離れていきます。来ない人を嘆く前に、迎える側でいられているかを、先に問うべきなのでしょう。

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