豊川信用金庫——デマ取り付け騒ぎを乗り越えた信金は、いま何に貸すか
預貸率48.6%、預金8,581億円、自己資本比率10.73%、不良債権比率2.7%。愛知県豊川市に本店を置く豊川信用金庫。1973年、デマから始まった日本金融史上に名高い取り付け騒ぎを、健全経営で乗り越えた信金。その数字と歴史を読む。
愛知県豊川市に本店を置く豊川信用金庫は、地元で「とよしん」と呼ばれる信用金庫だ。預金8,581億円、貸出金4,170億円、店舗36。東三河の豊川市を中心に、地域に根ざしてきた信金である。
本拠の豊川市は、東三河に位置し、商売繁盛の神様として知られる豊川稲荷の門前町として開けた。周辺には自動車関連をはじめとする製造業も立地し、農業も盛んな、産業の幅のある土地だ。豊川信用金庫は、こうした東三河の中小・零細事業者と住民を、会員として支えてきた。
だが、この信金の名は、数字よりもまず一つの「事件」とともに記憶されている。1973年(昭和48年)に起きた、デマから始まった取り付け騒ぎ——「豊川信用金庫事件」である。日本の金融史、そして社会心理学の教材として、いまも語り継がれる出来事だ。まずはこの椿事から、豊川信用金庫を読みにいく。
1973年、女子高生の冗談から始まった取り付け騒ぎ
豊川信用金庫事件は、1973年(昭和48年)12月、愛知県宝飯郡小坂井町(現・豊川市)を中心に「豊川信用金庫が倒産する」というデマが流れ、取り付け騒ぎが発生した事件だ。短期間(二週間弱)のうちに約14億円もの預貯金が引き出され、健全な信金が倒産の危機に立たされた。
発端は、まったくの偶然だった。12月8日、登校中の電車内で、女子高生3人のうち2人が、豊川信用金庫への就職が決まった友人に「信用金庫は危ないよ」とからかった。これは経営状況を指したものではなく、「信用金庫には強盗が入るから危険」という意味の、他愛のない冗談だった。ところが、からかわれた本人がそれを真に受け、親戚に「信用金庫は危ないのか」と尋ねたことから、話が独り歩きを始める。伝言ゲームのように人から人へ伝わるうちに、「豊川信金は危ない」「倒産する」という断定調の噂へと変貌していった。
折しも、1973年はオイルショックによる社会不安のただなかにあった。10月にはトイレットペーパー騒動が起きるなど、デマが流れやすい下地が社会全体にあった。さらに、伝播経路の途中にいた人物が、7年前に近隣の金融機関の倒産で出資金を失った被害者で、その目の前で別の人物が偶然にも大金の引き出しを指示したことから、噂は妙なリアリティを帯びた。狭い地域社会のなかで、別々の人から同じ噂を聞くことで信憑性があると思い込む現象も重なった。こうして、12月13日には窓口に預金者が殺到し始める。
14日には事態がさらに悪化する。信金が払い戻しを急ぐためにとった措置が曲解され、「職員の使い込みが原因」「5億円を職員が持ち逃げした」「理事長が自殺した」といった二次デマまで飛び交った。パニックは頂点に達した。
日銀の現金「山積み」と、信金界の重鎮の陣頭指揮
この危機を鎮めたのは、迅速かつ大胆な対応だった。事態を受けた日本銀行は、考査局長が記者会見を行い、同信用金庫の経営について「問題ない」と明言。混乱を避けるため、日銀名古屋支店を通じて現金を手当てした。そして預金者へのアピールとして、本店の大金庫の前に、日銀から輸送した大量の現金を、高さ1メートル・幅5メートルにわたって、窓口からも見えるように山積みにした。「お金はいくらでもある」と目で見せたのである。
陣頭指揮をとったのは、当時、城南信用金庫の理事長で、全国信用金庫連合会と全国信用金庫協会の両会長を務めていた小原鐵五郎だった。彼は、一つでも対応を誤れば周囲の信用金庫にまで飛び火しかねないと判断し、思いつくかぎりの手を打った。札束をカウンターからよく見える場所に置かせ、「お金がご入用ならいくら払い戻しても構いません」とあえて出金を勧める張り紙を本支店に掲げ、執拗に説明を求める客には財務局へ電話で確かめさせ、そのやりとりを録音して店内に流させた。午後3時の閉店時間を過ぎても、客が一人でも残っているかぎり店を閉めるな——閉めれば現金が底をついたと思われるから——と指示した。マスコミ各社も、14日夕方から15日朝にかけてデマであることを報道し、沈静化に協力した。
こうした対策により、騒動は収束に向かった。12月16日、警察がデマの伝播ルートを解明して発表し、女子高生3人の雑談をきっかけとした自然発生的な流言であり、犯罪性がないことが判明した。警察は信用毀損業務妨害の疑いで捜査していたが、背後に組織的な陰謀があったわけではなかった。デマがパニックを引き起こすまでの過程がここまで詳細に解明された例は珍しく、この事件はいまも心理学や社会学の教材として取り上げられている。
いま、数字を並べてみる
それから半世紀。いまの豊川信用金庫の数字を並べてみよう。預金は8,581億円、貸出金は4,170億円、預貸率48.6%。自己資本比率は10.73%、不良債権比率は2.7%。店舗数は36、中小企業等への貸出残高は3,393億円、貸出先は1万8千件を超える。
| 預金 | 8,581億円 |
|---|---|
| 貸出金 | 4,170億円 |
| 預貸率 | 48.6% |
| 自己資本比率 | 10.73% |
| 不良債権比率 | 2.7% |
| 中小企業等向け貸出残高 | 3,393億円 |
| 中小企業等向け貸出先 | 18,575件 |
| 店舗 | 36店 |
預貸率48.6%・不良債権2.7%。あの椿事を乗り越えた信金の、いまの落ち着いた数字。
48.6%と2.7%を、東三河から読む
預貸率48.6%は、集めた預金のおよそ半分を貸出に回している、信用金庫として標準的な水準だ。そして不良債権比率2.7%は、信用金庫のなかではむしろ落ち着いた部類に入る。預金の半分ほどを地元に貸しながら、焦げ付きは抑えられている——この数字は、豊川信用金庫が東三河の事業者に手堅く貸してきたことの表れと読める。
豊川信用金庫が貸す相手は、豊川稲荷の門前町の商業、自動車関連をはじめとする製造業、農業、そして地域の住民だ。東三河は、名古屋圏の一角として製造業が立地する一方、農業や商業も層をなす、産業の幅のある土地である。多様な業種に貸し先が分散していることが、不良債権比率2.7%という落ち着いた水準を支えていると読める。自己資本比率10.73%という、信用金庫の国内基準4%を大きく上回る水準とあわせて、手堅い経営がうかがえる。
もちろん、これらの数字には経営方針や景気も絡むため、断定はできない。だが、半世紀前にデマで存亡の危機に立たされながら、健全な経営ゆえにそれを乗り越え、いまも落ち着いた数字を保っていることは、この信金の歩みを物語る。預貸率という数字の読み方は、預貸率の読み方であらためて整理している。
同じ愛知で、信金を並べてみる
本紀行には、同じ愛知県の知多信用金庫も登場している。知多信金は、醸造業と臨海工業の知多半島に根ざす信金で、預貸率49.4%・不良債権比率3.94%。豊川信用金庫(預貸率48.6%・不良債権2.7%)と並べると、同じ愛知県の半島部・東三河という産業の幅のある土地で、二つの信金がそれぞれの地域を手堅く支えていることが見えてくる。愛知の信金の姿は、知多信用金庫の記事もあわせてどうぞ。
数字は、乗り越えた歩みを映す
預貸率48.6%、不良債権比率2.7%という落ち着いた数字は、産業の幅のある東三河に根ざし、地元の事業者に手堅く貸してきた信金の姿を映している。だが豊川信用金庫の名は、その数字以上に、デマから始まった取り付け騒ぎを健全経営で乗り越えた信金として、金融史に刻まれている。風評という目に見えぬリスクに金融機関がいかにもろく、また健全な経営がいかにそれを支えるか——豊川信用金庫の歩みは、そのことを静かに物語っている。
各地の金融機関には、それぞれの土地と歩みの事情が刻まれた、それぞれの生き方がある。愛知県の他の金融機関とあわせて眺めたい方は、愛知県の地域金融機関のページもどうぞ。
執筆・監修:燧徹史(¥Today 編集責任者)
出典:預金・貸出金・預貸率・自己資本比率・不良債権比率・中小企業等向け貸出残高・貸出先件数・店舗数=金融庁「中小・地域金融機関情報一覧」令和7年3月末(信用金庫の計数は百万円単位を億円に換算。預貸率は貸出金÷預金で算出)。
豊川信用金庫事件の経緯(1973年12月、愛知県宝飯郡小坂井町〈現・豊川市〉を中心とするデマによる取り付け騒ぎと二週間弱で約14億円の預貯金流出、12月8日の電車内での女子高生の冗談を発端とする流言の伝播、オイルショック・トイレットペーパー騒動という社会不安の下地、二次デマの発生、日本銀行考査局長の記者会見と日銀名古屋支店を通じた現金手当て・本店大金庫前への現金の山積み〈高さ1m・幅5m〉、小原鐵五郎〈城南信用金庫理事長・全国信用金庫連合会および全国信用金庫協会の両会長〉の陣頭指揮、12月16日の警察によるデマ伝播ルートの解明と犯罪性がないことの判明)に関する記述=学術論文(伊藤陽一・小川浩一・榊博文「デマの研究」、沼田健哉「流言の社会心理学」等)にもとづく各種公開情報による。
豊川市・東三河の地理と産業(豊川稲荷の門前町、製造業の立地、農業)に関する記述=各種公開情報。
知多信用金庫の数値・位置づけ=金融庁「中小・地域金融機関情報一覧」令和7年3月末および本紀行既出記事。