金融マン列伝 小原鐵五郎——「貸すも親切、貸さぬも親切」信用金庫の神様
城南信用金庫を率い、全国の信用金庫の発展に生涯を捧げた男がいる。小原鐵五郎。「貸すも親切、貸さぬも親切」「裾野金融」「カードは麻薬」——いまも語り継がれる「小原鐵学」を残し、「ミスター信金」「信用金庫の神様」と呼ばれた。信用金庫の「金庫」という名を守り、ある取り付け騒ぎでは奇想天外な陣頭指揮で一つの信金を救った。その生涯をたどる、金融マン列伝。
金融機関の数字の裏には、いつも人がいる。預貸率や不良債権比率といった指標の向こうには、「誰に、どう貸すか」を決めてきた人々の思想がある。この「金融マン列伝」は、地域金融の歴史に名を刻んだ人物を取り上げ、その生き方から金融を読む試みだ。第一回に選んだのは、小原鐵五郎(おばら てつごろう)。城南信用金庫を率い、戦後の信用金庫という仕組みそのものを育てた、「信用金庫の神様」である。
歯に衣着せぬ直言で、政官財に強い影響力を持った。国会には金融界の重要参考人としてしばしば呼ばれ、独自の金融哲学を幾度も述べた。「ミスター信金」「金融界の大久保彦左衛門」とも呼ばれた。その言葉は「小原鐵学(おばらてつがく)」と呼ばれ、いまも信用金庫の現場で語り継がれている。
米騒動を見た青年——大崎信用組合へ
小原鐵五郎は、1899年(明治32年)、東京府荏原郡大崎村(現・東京都品川区大崎)の農家に生まれた。尋常高等小学校を卒業後、生家の農業を手伝っていた。転機は1918年(大正7年)の米騒動だ。米価の高騰に苦しむ人々を目の当たりにした青年は、「弱い人達も安定した暮らしができる世の中にしなくてはならない」「貧富の格差をなくし、安定した社会を築き上げたい」と志す。
そして、1919年(大正8年)、大崎信用組合の創設に加わり、入職した。設立時のメンバーであり、当初は無給だったという。従業員わずか3人、町役場の一室から始まった小さな組合。ここが、後に「信用金庫の神様」と呼ばれる男の出発点だった。庶民のための金融——その原点に、米騒動で見た人々の苦しみがあった。
東京大空襲と、城南信用組合の誕生
時代は戦争へと向かう。1945年(昭和20年)、東京大空襲によって城南地区(東京の南部、品川・大田周辺)が壊滅的な被害を受けた。多くの信用組合が、組合員も預金者も、工場・店舗・住居を失った。復興のための資金需要が、一気に押し寄せることは明らかだった。
この危機のなか、城南地区の15の信用組合が合併し、城南信用組合が発足する。日本一の規模を誇る信用組合だった。小原は専務理事に就任し、実務面を取り仕切った。後年、彼はこの合併の際、単身で系統機関である農林中央金庫の門をたたき、「3千万円貸してほしい」と頼み込んだと振り返っている。当時の3千万円は、いまの数億円にも匹敵する大金だ。被災した組合員のために、自ら資金を取りに走る——その実務家としての胆力が、城南の礎を築いた。1956年(昭和31年)には、城南信用金庫の第3代理事長となる。
「金庫」という名を守った男
小原の功績で見落とせないのが、信用金庫という制度そのものを守り、育てたことだ。第二次世界大戦後、占領軍の施策により、都道府県に届け出るだけで簡単に信用組合が設立できるよう法律が改められた。玉石混交の組合が乱立するなか、従来の堅実な信用組合は、それらと一線を画す必要に迫られた。
そこで業界は各界に働きかけ、1951年(昭和26年)、「信用金庫法」を成立させ、一斉に信用金庫へ転換した。このとき、新しい名称をめぐって議論があった。「信用銀行」とする案もあったのだ。だが、小原鐵五郎ら当時の業界関係者は、「金庫」の名にこだわった。「我々は、地域の中小企業ならびに国民生活の発展、繁栄を使命とする、公共的使命をもった協同組織の金融機関である。儲け主義の銀行とは違う」——その強烈なプライドと使命感が、「銀行」ではなく「金庫」という名を選ばせた。
信用金庫の中央機関である信金中央金庫も、いわば城南が生みの親だ。その前身は、昭和25年に城南信用金庫の応接間を事務所に借りて発足した。小原は全国信用金庫協会と全国信用金庫連合会(現・信金中央金庫)の両会長を永年にわたって務め、一信金の経営者にとどまらず、信用金庫業界全体のリーダーとして、その発展に生涯を捧げた。
小原鐵学——「貸すも親切、貸さぬも親切」
小原の名を不滅にしたのは、その金融哲学=小原鐵学だ。なかでも最も知られるのが、「貸すも親切、貸さぬも親切」である。
若い頃、産業組合中央会の弁論大会で、小原はこう述べた。「銀行は利息を得るためにお金を貸すが、我々組合は、先様のお役に立つようにとお金を貸す。たとえ担保が十分で、高い利息が得られたとしても、投機のための資金など、先様にとって不健全なお金は貸さない。貸したお金が先様のお役に立ち、感謝されて返ってくるような、生きたお金を貸さなくてはならない」。これを「貸すも親切、貸さぬも親切」と要約した。相手のためにならない金は、たとえ儲かっても貸さない。それもまた親切だという思想である。
彼は日頃、「お金を貸す」ではなく「ご心配して差し上げる」という言葉を使った。「信用金庫は相互扶助の協同組織。まず先様の立場に立って、事業のご心配をし、知恵を貸し、汗を流して、その発展に尽力することが親切だ」と指導した。後のバブル期、大手銀行が株式や土地、変額保険などへの投機を取引先に勧めて融資を膨らませ、バブル崩壊で取引先に大きな損害を与えたとき、城南は「貸すも親切、貸さぬも親切」に徹し、投機的な融資を断った。結果、取引先に損害をかけず、自らの健全経営も守ったとされる。
小原鐵学には、ほかにもいくつもの言葉がある。米国視察で消費者金融の弊害を見た彼は、「カードは麻薬」と、クレジットカードや消費者金融の安易な借金に警鐘を鳴らした。大企業の海外進出と産業空洞化を憂え、「国民経済」を説いた。市場での金融商品売買に偏る「市場金融」を批判し、企業に低利で良質な資金を安定供給する「産業金融」に徹することの大切さを強調した。いずれも、彼の死後に現実味を増した警告だった。
「人の性は善なり」——山師と呼ばれた男への融資
小原鐵学のなかでも、人柄がにじむのが「人の性は善なり」だ。お金を扱う仕事は、ともすれば相手を疑う「性悪説」に傾きやすい。だが小原は、若い時からの苦労を経て、逆に「人の性は善なり」を信条とした。
あるとき小原は、世間から山師と蔑まれ、誰からも相手にされなかった人物から、融資の相談を受けた。小原は色眼鏡で見ることなく、一人の人間として丁寧に接し、相手の人柄が信頼できると判断して、思い切って融資を行った。「私はあなたを信用します」と告げて。
その後、その人物は事業に成功し、やがて国会議員となった。お祝いの宴席で、彼は末席にいた小原を見つけてこう言った。「小原さんはおられるかな。今日は床の間に小原さんをすえなきゃ、俺は座らない」。そして小原を上座に招き、「私が五反田にいた頃、ほとんどの人が私をヤクザ扱いしたが、小原さんだけは一人前の人間として扱ってくれた。私が今日あるのは、ひとえに小原さんのおかげだ」と深く感謝したという。担保ではなく、人を信じて貸す——「貸すも親切」の真髄が、この逸話にある。
豊川信用金庫、取り付け騒ぎ——奇想天外な陣頭指揮
小原鐵五郎の実務家としての真骨頂が、最も鮮やかに表れたのが、1973年(昭和48年)の豊川信用金庫の取り付け騒ぎだ。愛知県の豊川信用金庫が、女子高生の他愛ない冗談から広まったデマで「倒産する」と噂され、二週間弱で約14億円もの預金が引き出された、日本金融史に名高い事件である。
事件のさなか、旅行先にいた小原のもとへ、本部から「豊川で取り付け騒ぎが起きている」と連絡が入った。当時、彼は城南信用金庫の理事長であると同時に、全国信用金庫連合会と全国信用金庫協会の両会長。信用金庫業界のトップだった。小原は、一つでも対応を誤れば周囲の信用金庫にまで飛び火しかねないと判断し、事態を解決するため、思いついたことは何でも実行した。
その手は、奇想天外で、思い切りがよかった。まず、「豊川信用金庫には親機関の全国信用金庫連合会がついております。お金がご入用なら、いくら払い戻しても構いません。ご遠慮なくお申し出ください」という張り紙を、本支店10か所の店頭に掲げさせた。取り付け騒ぎのさなかに、あえて「いくらでも出す」と宣言する。日銀から運んだ大量の現金を、窓口から見えるよう山積みにして「お金はいくらでもある」と目で見せた。執拗に説明を求める客には財務局へ電話で確かめさせ、そのやりとりを録音して店内に流させた。閉店時間を過ぎても、客が一人でも残っているかぎり店を閉めるな——閉めれば現金が尽きたと思われるから——と指示した。
「いくらでも出す」と見せれば、かえって人は安心して引き出さなくなる。人の心の動きを読み切った、大胆かつ的確な差配だった。騒動は数日で収束し、豊川信用金庫は健全経営ゆえにこの危機を乗り越え、いまも営業を続けている。業界全体への波及を一人の判断で食い止めた、この陣頭指揮こそ、「ミスター信金」の面目躍如だった。事件そのものの詳しい経緯は、本紀行の豊川信用金庫の記事で読める。
信用金庫の経営理念を遺して
小原が信用金庫業界に遺したものは、言葉だけではない。「中小企業の健全な育成発展」「豊かな国民生活の実現」「地域社会繁栄への奉仕」——いまも信用金庫が掲げるこの3つの経営理念は、昭和43年(1968年)の信用金庫躍進全国大会で、小原が打ち出したものだ。一つひとつの言葉に、信用金庫の公共的使命が込められている。
晩年、小原は私財を投じ、育英基金に100億円を寄付したと伝えられる。1989年(平成元年)1月27日、89歳で世を去った。故郷・品川区荏原の摩耶寺には、「貸すも親切 貸さぬも親切」と刻まれた顕彰碑が建っている。生涯の信条が、そのまま墓碑銘になった。
数字の向こうに、思想がある
小原鐵五郎が率いた城南信用金庫は、いまも東京を代表する信用金庫として、その思想を受け継いでいる。「貸すも親切、貸さぬも親切」「裾野金融」「人の性は善なり」——これらは、ただの美談ではない。誰に、何のために貸すのか。儲かれば何でも貸すのか、相手のためにならない金は断るのか。金融機関の数字の裏側にある、もっとも根本的な問いに、小原は生涯をかけて一つの答えを示した。
米騒動で苦しむ人々を見た青年が、無給で小さな信用組合に入り、やがて信用金庫という仕組みそのものを育て、その名を守り、危機の信金を救った。一人の金融マンの生き方が、戦後日本の地域金融の骨格をかたちづくった。数字の向こうには、いつも人がいる——金融マン列伝が伝えたいのは、そのことだ。
小原が育てた城南信用金庫そのものを知りたい方は、城南信用金庫の個別記事を。彼が陣頭指揮をとった取り付け騒ぎの全貌は豊川信用金庫の記事で、東京都の他の金融機関は東京都の地域金融機関のページでどうぞ。
執筆・監修:燧徹史(¥Today 編集責任者)
出典:小原鐵五郎の経歴(1899年に東京府荏原郡大崎村の農家に生まれ、1918年の米騒動を機に1919年の大崎信用組合創設に無給で加わったこと、1945年の東京大空襲後に城南地区15信用組合が合併して城南信用組合が発足し専務理事に就任、1956年に城南信用金庫第3代理事長となり、全国信用金庫協会・全国信用金庫連合会〈現・信金中央金庫〉の両会長を永年務めたこと、「ミスター信金」「金融界の大久保彦左衛門」「信用金庫の神様」と呼ばれたこと、1989年1月27日に没し、品川区荏原の摩耶寺に「貸すも親切 貸さぬも親切」の顕彰碑が建つこと、育英基金への寄付)に関する記述=城南信用金庫公開情報、信金中央金庫 地域・中小企業研究所「信金中金月報」(2017年9月)、各種公開情報。
小原鐵学(「貸すも親切、貸さぬも親切」「裾野金融」「カードは麻薬」「国民経済」「産業金融」「人の性は善なり」、信用金庫の3つの経営理念が昭和43年の信用金庫躍進全国大会で打ち出されたこと、信用金庫法成立〈1951年〉と「金庫」名称の選択、信金中央金庫の前身が城南信用金庫の応接間で発足したこと、山師と呼ばれた人物への融資の逸話)に関する記述=城南信用金庫「加納久宜・小原鐵五郎」公開ページおよび各種公開情報。
豊川信用金庫の取り付け騒ぎ(1973年12月、デマによる取り付け騒ぎと約14億円の流出、小原鐵五郎の陣頭指揮=親機関の連合会がついている旨と払い戻しに応じる旨の張り紙、現金の山積み、財務局への電話の録音、客が残るかぎり閉店しないとの指示など)に関する記述=各種公開情報および本紀行「豊川信用金庫」記事に拠る。
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