唐津信用金庫——やきものの城下町で、佐賀最古の信金は何に貸すか
預貸率56.8%、預金955億円、自己資本比率8.5%、不良債権比率4.03%。佐賀県唐津市に本店を置く唐津信用金庫。茶陶・唐津焼の城下町に本店を置く唯一の金融機関が、何に貸すのか。同じ佐賀の信金と比べながら、その数字と歴史を読む。
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佐賀県の唐津市に本店を置く唐津信用金庫は、預金955億円を持つ信用金庫だ。店舗8。「からしん」の呼び名で知られ、唐津市と東松浦郡を地盤とする。唐津地区に本店を置く、唯一無二の金融機関である。
本拠の唐津市は、玄界灘に面した城下町だ。寺沢氏が築いた唐津城が「舞鶴城」の名で海辺に立ち、虹の松原が白砂青松の海岸線を縁取る。豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城跡も近い。そして何より、この土地は「やきもの」の名で全国に知られた茶陶・唐津焼のふるさとだ。唐津信用金庫は、こうした玄界灘のやきものの城下町に根ざしてきた信金だ。その数字を読む前に、この土地の名を全国に知らしめた一つのやきものの物語に、少し寄り道したい。
「からつもの」——やきものの城下町
唐津焼の起こりは、安土桃山時代にさかのぼる。当時この地を支配していたのは、強大な水軍を背景に玄界灘の交易を握った松浦党の宗主・波多氏だった。波多氏がその交易力を生かして朝鮮や中国から陶工を招き、岸岳のふもと——現在の唐津市北波多に窯を開いたのが、唐津焼の始まりと伝えられる。文禄・慶長の役(1592〜98年)で連れ帰られた朝鮮陶工によるとされてきたが、それ以前の1580年代にはすでに生産が始まっていたとも考えられている。それまで漏れ止めのために掛けられていた釉薬を装飾として用い、草木を描いた「絵唐津」は、日本で初めて筆で文様を描いた焼物とも言われる。
桃山時代、千利休によって茶の湯が流行すると、唐津焼はその世界で確固たる地位を築く。利休の茶席には唐津の水指が用いられ、古田織部をはじめとする茶人たちに愛された。茶碗の格付けとして「一楽二萩三唐津」——京都の楽焼、山口の萩焼に次ぐ三番手として、その名は今も語り継がれる。この呼び方が定まる以前には「一井戸二楽三唐津」とも称され、いずれにせよ唐津焼が茶陶の名品の三指に数えられていたことに変わりはない。唐津港から積み出された焼き物は京都・大坂をはじめ西日本一円に広がり、西日本では「からつもの」といえば焼き物そのものを指すまでになった。東日本でいう「せともの」の、西の対である。
だが、栄華は永くは続かなかった。江戸時代に入り、1616年ごろから有田で磁器の生産が始まると、肥前のやきものは陶器から磁器へと移り、唐津焼は苦境に立たされる。陶工は有田・伊万里へ流れ、藩の御用窯に集約されながら細々と命脈を保った。明治維新で藩の庇護を失うと、生産をやめる窯元が続出し、存続すら危ぶまれる。それでも昭和に入り、人間国宝・中里無庵(十二代中里太郎右衛門)が古唐津の窯跡を発掘し、桃山から江戸初期の技法を復活させたことで、唐津焼は再びかつての輝きを取り戻した。土の力をそのまま映す素朴さで、いまも全国の茶人に愛される——それが、この城下町の名を世界に運んだやきものの物語だ。唐津信用金庫は、その土地に立つ信金である。
この信金の数字で目を引くのは、預貸率56.8%という、信用金庫としてはやや高めの水準と、自己資本比率8.5%という薄めの資本だ。預金の6割近くを貸出に回し、資本は厚くない。不良債権比率は4.03%。なぜ、やきものの城下町の信金は、こうした数字になるのか。同じ佐賀の信金とも比べながら、数字を読みにいく。
数字を並べてみる
まず、絶対値から。唐津信用金庫の預金は955億円、貸出金は543億円。預貸率は56.8%で、預金の6割近くを貸出に回している。自己資本比率は8.5%、不良債権比率は4.03%。店舗数は8、中小企業等への貸出残高は482億円。
同じ佐賀県で、肥前の県都を地盤とする佐賀信用金庫(預貸率54.2%・自己資本比率11.34%)と比べると、唐津のほうがやや高い比率で貸し、資本は薄い。唐津信用金庫の預貸率56.8%は佐賀信用金庫(54.2%)を上回り、預金の6割近くを貸出に回す。一方、自己資本比率は佐賀信用金庫(11.34%)が上回り、唐津信用金庫(8.5%)は薄めだ。玄界灘のやきものの城下町に根ざす唐津と、肥前の県都に根ざす佐賀——同じ佐賀の信金でも、地盤とする土地が数字の細部を分けていると読める。佐賀県には4つの信用金庫があり、唐津信用金庫はそのなかで県内最初に信用金庫となった、最も古い歴史を持つ一金庫である。
| 唐津信用金庫 | 佐賀信用金庫 | |
|---|---|---|
| 本店 | 唐津市 | 佐賀市 |
| 預金 | 955億円 | 1,337億円 |
| 預貸率 | 56.8% | 54.2% |
| 自己資本比率 | 8.5% | 11.34% |
| 不良債権比率 | 4.03% | — |
ともに佐賀県を地盤とする信金。唐津はやや高めに貸し資本は薄め、県都の佐賀は資本に厚みがある。地盤とする土地の違いが背景にある。
玄界灘の城下町とともに——唐津信用金庫の歩み
唐津信用金庫は、1929年(昭和4年)、産業組合法に基づく「有限責任唐津町信用販売購買組合」として設立され、事務所を唐津市呉服町に置いた。1943年(昭和18年)に唐津信用組合へ組織変更し、事業地区を唐津市一円に。戦後の1950年(昭和25年)に中小企業等協同組合法による信用組合となり、1951年(昭和26年)、信用金庫法に基づき佐賀県内で最初の信用金庫として現在の唐津信用金庫となった。唐津地区に本店を置く唯一無二の金融機関として、地域を限定した地域密着の経営を貫いてきた。佐賀県信用金庫協会に加盟する4金庫(唐津・佐賀・伊万里・九州ひぜん)とともに、中小企業支援の覚書を経済団体と結ぶなど、県内信金の連携にも加わっている。
唐津という土地は、信用金庫にとって、貸す相手のある地盤だ。玄界灘の漁業、虹の松原や唐津くんちに集まる観光、城下町の商業、そしてやきものの窯元——多様な事業者が広がる。一方で、人口減少と高齢化が進み、地方銀行も限られる。唐津地区でただ一つ本店を置く信金として、この地の中小・零細事業者に密着して貸す——その姿が、預貸率56.8%という、信用金庫としては高めの水準を支えている。自己資本比率8.5%という薄めの資本と、不良債権比率4.03%は、限られた商圏のなかで地域の浮き沈みを引き受けながら、地元に貸し続けてきたことを映していると読める。
56.8%を、玄界灘から読む
唐津信用金庫の預貸率56.8%という水準は、唐津地区でただ一つ本店を置く信金として、玄界灘の城下町と背後の地域に貸していることの表れだと読める。漁業・観光・商業・窯業の唐津は、信用金庫が貸す相手のある土地だ。地方銀行の限られたこの地で、唐津信用金庫はその中小・零細事業者に密着して貸し、預金の6割近くを貸出に回している。
自己資本比率8.5%という薄めの資本と、不良債権比率4.03%という焦げ付きは、限られた商圏のなかで地域とともに歩んできたことの表れだと読める。やきものの城下町に根ざし、佐賀最古の信金として地域を支える——それが、唐津信用金庫の数字に表れた生き方だと読める。預貸率という数字をどう読むかについては、預貸率の読み方もあわせてどうぞ。
佐賀の経済とともに
唐津信用金庫の数字は、玄界灘のやきものの城下町という土地と、佐賀最古の信金として歩んできた歴史の、両方を映している。預金の6割近くを地元の会員に貸し、限られた商圏で地域の中小・零細事業者を支えてきた。漁業・観光・窯業の唐津の経済が、56.8%という預貸率に表れている。
銀行や信用金庫の数字は、その土地の経済と、その金融機関の生き方を映す鏡だ。唐津信用金庫を見れば、玄界灘の経済と、そこでただ一つ本店を置く城下町の信金の姿が浮かぶ。佐賀県の他の金融機関は、県都の佐賀信用金庫、やきものの里の九州ひぜん信用金庫、積出港の伊万里信用金庫、県のトップバンク佐賀銀行もあわせてどうぞ。預貸率という数字の読み方については、預貸率の読み方へ。佐賀県の他の金融機関と並べて眺めたい方は、佐賀県の地域金融機関のページへ。
唐津信用金庫は、唐津に深く根ざした信用金庫です。借りる・備えるのどちらを考えるにしても、土台になるのは日頃の取引と信用。口座づくりから保証制度まで、どんな立場でも知っておきたい融資・銀行取引の基礎をまとめました。
- → 創業融資の受け方
- → 事業計画書の作り方
- → 信用保証協会とは
- → セーフティネット保証とは
- → 当座貸越とは
執筆・監修:燧徹史(¥Today 編集責任者)
出典:預金・貸出金・預貸率・自己資本比率・不良債権比率・中小企業等向け貸出残高・店舗数=金融庁「中小・地域金融機関情報一覧」令和7年3月末(信用金庫の計数は百万円単位を億円に換算。預貸率は貸出金÷預金で算出)。佐賀信用金庫の数値も同出典。
沿革(1929年(昭和4年)に有限責任唐津町信用販売購買組合として設立され事務所を唐津市呉服町に置いたこと、1943年に唐津信用組合へ組織変更し事業地区を唐津市一円としたこと、1950年に信用協同組合へ組織変更したこと、1951年に信用金庫法に基づき佐賀県内で最初の信用金庫となったこと、唐津地区に本店を置く唯一の金融機関であること、唐津市と東松浦郡を地盤とすること、佐賀県信用金庫協会の4金庫の中小企業支援の覚書に加わっていること、「からしん」と呼ばれること)=唐津信用金庫、日本銀行佐賀事務所「佐賀県の金融史」および各種公開情報にもとづく。
唐津焼の歴史(安土桃山時代に松浦党の波多氏が朝鮮・中国から陶工を招き岸岳のふもと・北波多に窯を開いたとされること、1580年代には生産が始まっていたと考えられること、絵唐津が日本で初めて筆で文様を描いた焼物とされること、千利休の茶席に唐津の水指が用いられ古田織部ら茶人に愛されたこと、茶の湯で「一楽二萩三唐津」「一井戸二楽三唐津」と格付けされたこと、唐津港から積み出され西日本で「からつもの」が焼き物を指すまでになったこと、1616年ごろの有田の磁器生産を境に陶器から磁器へ移り衰退したこと、人間国宝・中里無庵(十二代中里太郎右衛門)が古唐津の技法を復活させたこと)=唐津焼発祥の里 北波多、唐津焼関連の公開情報、各種文献にもとづく。
唐津・玄界灘の地理・歴史(唐津、唐津城、舞鶴城、虹の松原、玄界灘、名護屋城、唐津くんち、東松浦郡)に関する記述=各種公開情報。
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